【人物篇】

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 幣原喜重郎〜総理と有名なバーバー(フェーマス・バーバー)

このごろ「よき隣人」という言葉がきかれない。だが、よき隣人がいないわけではない。こんな話がある。
戦後(昭和20年)のかくれたエピソードの一つを、幣原喜重郎著「外交五十年」が記録している。“アメリカ兵と床屋”というのである。
東京千代田理容組合の船越景一氏が戦災で、朝霞のゴルフ場の近所に住んでいた時の話である。
終戦直後で、『アメリカ兵が家の中に入ってきたら、打ちのめせ』といった隣組の申し合わせのあった頃、道に迷った一人の米兵を親切にしたことが、この町の一触即発の気分を柔らげた。これは、船越景一君の大手柄と、その事情を詳しく述べている。その一節に、こんなのがある。
『兵隊は、とてもよろこんでお礼をいっていたが、主人公に向かって「あなたのご商売は何ですか」と聞く。「わしは、バーバーです。しかも、東京で有名なバーバー(フェーマス・バーバー)です」と威張って答えた。彼は、理容組合の組合長かをしていたので、そう答えた。
すると、兵隊は「有名というのはどうしてですか。あなたのごひいきの人に偉い人がいるのですか」「それは、みんな偉い人です」「例えば、どんな人がいますか」。
例えばといわれて、彼は、私の名前を告げた。そのころ、私は総理大臣をしていたから、アメリカの兵隊も、私の名前ぐらい知っていたらしく、感心して聞いていたそうだが、大きな日本の国旗を出して、「も一つ、あなたにお願いがあるのですが、一つ、シデハラさんに、これにサインして呉れるよう頼んで下さい。私の、帰るときのいい記念にするのですから」といって頼んだ。
江戸っ子の理容屋さん「よろしい、こんどシデハラさんが、日本クラブに来られたら頼んでみましょう」と引き受けた』
アメリカ兵のことを船越景一氏に聞くと、
『とに角、和英辞書を片手に英会話というのですから、内心は心細いものでした。アメさんは、自分はバラック(兵舎)へ帰らなければならないが、道がわからないというし、真暗で、雨が降っていて道が悪い。私の英語で道を教える自信などありません。右へ行って、左へ行って、それからどこをどう曲がるかなどというややこしいことはとても駄目で、結局家へ泊めましたが、この町の不穏な空気の中でしたから勇気のいることでした』
そうした事が、縁は異なもの、話せばわかるので、時々、兵隊が来るようになった。
そのうち近隣のかみさん連中も仲良くなって、思いもかけない「日米親善」の花が咲いた。そして、かみさん連は洗濯物など頼まれたりしていた。
“アメリカ兵と床屋”で、幣原総理は述懐している。
『ある日、私が日本クラブへ散髪に行くと、床屋はこの日ノ丸の旗を持ち出して、実は、こうこういう訳で頼まれたのですが、どうか、サインしてあげて下さいという。私は「それはいかん、国旗に字を書くことは、国旗を汚すものだ。それは宜しくない。」(中略)しかし、君は、実に善いことをした。外交官が何年、一つの場所にいても、それ程親善の心を現わすことはなかなか出来るものじゃない。(中略)まあ、僕に任して置き給え」といって、床屋が残念がるのを構わず国旗を押し返した』
『数日後、私は用事があって大阪へ行った帰りに、京都へ寄って扇子を数本買った。(中略)そして、それに、私が好んで暗誦しているシェークスピアの「ヴェニスの商人」の第四幕、人肉裁判の場でポーシャが、シャイロックに申し聞かせる一節、=慈悲ということは、強いらるべき性質のものではない。丁度、柔らかな雨が、天からシトシト降って、地を潤すと同じようなものである。それが慈悲の本質だ。慈悲というものは、二重に人に、恩恵を施す。即ち与えた者も、受けた者もどちらも、天の恵沢に浴するのだ=と、いう韻文、私はそれを原文のまま覚えていたので、それを二本の扇子に認め、一本は兵隊さんに、他の一本は君にあげるといって床屋に渡すと、よろこんで持って帰った』
後で、アメリカの新聞、雑誌にこれが報道されたので、床屋の主人は、言葉どおり有名な理容師(フェーマス・バーバー)となった。

参考資料:「外交五十年」(幣原喜重郎)