【人物篇】

2
 石川啄木〜東京でのくらし

=その1・胸の痛くなるはなし=
「喜之床」こと、新井喜之助にこんな記録がある。
『本郷に、一丁目から六丁目の丁目呼称が寛文のころ、太田道灌の長禄年間は、武州豊島郡峡田領本郷村と呼び、町屋が追々に増えていった』
元禄14年になると、拝領町屋敷とよんで、幕府は、安サラリーの家来に土地を配給した。その地代が生活の糧となったというからお寒い話である。
いま、昔のユメ話の一つだが、文京地区の本郷台地には、蛤蜊店(はまぐりだな)があり、附木店(つけぎだな)日蔭町の名もあった。毎朝、貝類商人の出商いや、附木商の商い地があって、下町を思わす地名を残した。
お寒い話のウラ側には、貧乏がある。その貧乏で、胸が痛くなるのが、文京区久堅町の一角で、窮死した石川啄木の生涯である。
啄木は、最後の日記にこう書いた。
『金はドンドンなくなった。母の薬代が一日約四十銭の割合でかかった。質屋から出して、仕立て直しさした袷と下着はたった一晩、家においただけでまた質屋にやられた。その金も尽きて、妻の帯も同じ運命に逢った。
医者は、薬価の月末支払いを承諾してくれなかった。母の容態は、昨今、少し良いように見える。しかし食欲は減じた』
社会保障のない明治の終わりころの悲しさ。啄木も、母も、そして同じ病いの妻も、この日以来、薬さえも飲めなかったらしいのである。

=その2・暖かいはなし=
石川啄木は、明治42年の日記に、ローマ字で書いている。なんでローマ字で書いたかは、現在、啄木研究課題の一つである。その最後に、「床やの二階に移るの記」というのがある。
それが、本郷弓町2丁目(文京区本郷2丁目)の新井理容店の二階に間借りするときのことだった。
新井理容店の初代・新井喜之助は『喜多床』一門の一人だった。作家の筆になるのをみると、喜之助の名をとって「喜之床」といったとあるのも、実は、新井喜之助の心底には、中村喜太郎の「喜多床」の名が、大きくやきついていたのかもしれなかった。
師事した人のえらさが、その心に生きていた。喜多床の、喜の字を頂戴して喜之床といえば、昔流での「のれん」分けに近い。しかも自分の名が喜之助だった。
それはともかくの話、啄木は、日記にこう書いた。
『宮崎君から送ってきた十五金で、本郷弓町二丁目十八番地の新井という床やの二階二間を借り、下宿の方は、金田一君の保証で、百十九円余を、十円ずつの月賦にしてもらい、十五日たってくるように家族に言い送った』
明治43年4月の話である。それから、1年あまり経って、44年8月7日、啄木は、久堅町に引っ越したが、その前日、8月6日の日記をみると……。
『下の新井の世話にて、山幡文次郎より三十円借りる。期限は十二月限り、利子年三割、新井にては、明日引越しに付き、先月分および今月分の家賃をまけてくれることになりたり。わが寝ている間に、荷物大方出来たり』
「文学散歩」の著者は、もし東京の啄木が、平凡で人間らしい生活を味わうことがあったとすれば、喜之床時代だけである、それも、長男真一が生まれるまでの一年数ヶ月だったろう……と書いた。
その子は、二十三日目に死んでいる。
そして喜之床の墓地に埋葬された。墓地もなかった啄木に、新井喜之助のふかい同情があった。

参考資料:「文学散歩」(野田宇太郎)