平成22年度業界振興論文・最優秀賞

「サインポールの灯を消さない」
~理容のイメージを考える~

梶川 満(鳥取県組合)

 

1.はじめに

 理容業の危機が叫ばれて久しい。先の見えないデフレ不況下、調髪サイクルの長期化、大型低料金店の進出、若者の美容室への流出等により、売り上げの激減や廃業する人の続出など、深刻さは増すばかりである。
 また理容師の平均年齢が60歳を超え、理容学校の入学者数は美容の1割以下、理容師試験受験者がゼロの県もあり、閉鎖される理容学校や廃止される理容科もある事態となっている。このままでは理容は、社会的使命を終えたとして免許が廃止される怖れさえ出て来ている。それを防ぐためには組合の組織力が必要なのだが、組合脱退者も年間3千人を超えるという危機的状況になっている。
 このような現状を打開すべく、組合による営業支援講習や、高校生を対象にした理容体験学習が全国で行われている。しかし関係者の献身的努力にも関わらず、理容師を目指す若者が増える傾向は無い。中には「美容師になりたかったので、良い経験になりました」と美容へ進む者もある。若い理容師が美容と同じセンスと技術があることを見せても、こうなる現実をどう理解すれば良いのだろうか。古くさいとか、地味とかのマイナスイメージがあるからなのだろうか。
 将来は美容に吸収され、ヘアビジネスの一部として生き残るのだろうか。それでは社会から多様性が失われてしまうのではないか。
 そのような逆風の中から、多くの人が様々な提案をして来た。公衆衛生の観点、癒しやリラクゼーションの視点、高齢化への対応、ファッション産業への脱皮等々、いかにして(HOW)収益を上げるかとのものが多かった。それも大切だが、本稿は視点を変え、若者を理容業へ参入させるために、理容の何故(WHY)を解き明かし、イメージアップのためどうすれば良いのか(HOW)へと論を進め、理容業振興の一助にしたいと思う。

2.理容は何故始まったのか

 どの民族も国家も、神話や歴史観を共有している。それは自分達の起源を知り、誇りを持つと共に、一体感を持つためでもある。それでは理容はどんな物語を持っているのだろうか。
 床屋の開祖は藤原采女亮という武士が、天皇の宝刀を盗まれた為に探索の旅に出、蒙古襲来で多くの侍が集まる下関で髪結職を営みながら情報を収集したことに始まる。天皇を祀る神棚と床の間があったところから床屋と呼ばれるようになった、と言われている。
 これは業祖が武士であり、天皇と結びついている事で、由緒正しい職業としての誇りを持たせることには成功している。しかし、理容業は、明治初期に髪を結う文化(床屋)と決別し、髪を切る文化に劇的に変った事から始まっている。それでは理容の物語はどうなるのだろうか。
 欧米列強の圧倒的な力に屈して開国を余儀なくされた明治期は、日本史上最大の激動期であった。文明開化の号令の元、男達は何千年も続いた結髪文化と別れ、髷を切らなければならなかった。当時髷を落すという事は、罪人や世捨人になることを意味していた。それでも男達は涙をのんで断髪したのである。
 それは文明国として認められ、不平等条約を改定するという大きな目的の為だった。そして文明国とは紳士のいる国であり、紳士を創ることは国家の大命題となった。その頃の我が国は、欧米から見れば遅れた野蛮国であり、丁髷は野蛮の象徴となったのである。
 紳士という騎士道から生まれた男性像は、武士道と通じる徳目も多く、勤勉倹約のプロテスタントの精神も、二宮尊徳の教えとも共通し、明治の男達も受け入れ易かったと思われる。当時の理容の先駆者達はこれを理解し、理容を紳士の正業であるとした。グルーミング技術も導入し、品格を高め、日本を紳士の国とするのに多大な貢献をしたのである。

3.理容は何故古いと言われるのか

 文化や文明を外から取り入れる時、最初は型や技術から入り、次には精神の理解へ進む。 横浜沖に停泊する外国船に入り、初めて理容技術を習得した第一世代の理容師達は、世界の現実を知り果敢に挑んだパイオニアであり、企業家であった。
 そして第二世代は、西洋人の髪型を日本人の扁平な頭にどう適応させるかに心を砕き、新たな技術体系を創ると共に、紳士という男性像を理解し、外見のみならず、教養を高め内面を磨いた。
 当時のリーダー達に大きな影響を与えたのは、スマイルズの「自助論」であり、福沢諭吉の「学問のすゝめ」であった。忠誠、勇気、自己犠牲、質実剛健といった武士の美質は、紳士像に吸収され、その後の日本人の規範的人間像となった。そして第二世代の技術と精神、それに衛生思想は弟子たちを通して全国に拡がっていった。
 心理学が言うように、人は適正な大人モデルが無いと成長できない存在である。文明開化期の日本は、古い伝統や制度が破壊され、新しい文化は普請中と言われ、風俗習慣も大混乱の時代であった。その混迷を救ったのが、紳士という新しい大人モデルだったと言えるだろう。
 規範的人間像を創るという命題から始まった理容業は、それ故に苦しむ宿命を持つことになった。文化には支配階級から発した上からの文化と、庶民から生まれた下からの文化がある。音楽で言えばクラシックが上から、ロックが下からと言える。上からの文化は、権威や権力と共にあるので、しばしば自由を求める人や若者から攻撃の対象になる。これは少年が父親に反抗し、乗り越え、自立するという成長過程と同一化し易い。
 理容はその出自から、スタンダードなスタイルを作って来た為、ビートルズと共に出現した長髪を受け容れず対応が遅れた。それはクラシック奏者が、すぐにロック音楽を理解できない様なものだが、理容は若者を理解できない職業と批判された。現代は個性が強迫的に求められる時代であり、大人モデルは常に揺さぶられている。
 しかし紳士の髪は現在も世界の基準(スタンダード)であり、最も信頼を与えるスタイルであり続けている。
 理容業は古いと言われても、伝統的な良き人間像を、時代に合わせつつ保守する役目もあるのである。

4.理容から生まれた文化を広めよう

 明治時代に日本に住み、多くの風刺画を発表したフランス人ビゴーの漫画には、鹿鳴館など、日本人が伝統をかなぐり捨てて、欧米に追いつこうとする姿を、猿真似として滑稽に描いたものが多い。
 その中に、帽子にワイシャツの男が、下はフンドシに靴という図がある。着物から洋服へ変化の時代、日本の洋服業界の苦労も偲ばれるというものである。
 さて、団塊世代が青春時代に大きな影響を受けたものにアイビーファッションがある。米国のアイビーリーガーと呼ばれる大学生達のスタイルを紹介したのは、VANの石津謙介氏だが、氏はそれをファッションではなく、生き方だと語った。当時の若者にとって衝撃的だったのは、TPOのルールと共に、ボタンダウンシャツ、ポロシャツ、ブレザー、ネクタイ、シューズにも歴史があり由来があるという事だった。
 VANが進んでいたのは、店舗デザイン、インテリア、ノベルティグッズまでトータルなイメージを作り、新しいライフスタイルを提案したことだろう。私達はその中で、秩序ある自由を感じたものだった。
 身嗜みを整える、それは自己をコントロールして他者と共に生きる事を表す行為である。理容店は人を社会化する場所であり、地域のサロンとして、ゴシップから政治まで語り合える場所であった。
 理容の強みは、そのような歴史から生まれた豊かな文化を持っている事である。理容外科医の頃からのサインポールを始め、珍しい道具や美しい容器が作られ、理容店からインスパイアされた、ノーマン・ロックウェルの絵画、ポストカード等もある。更に、米国の理容店へ集う人達から生まれた、バーバーショップカルテットもある。今は日本にも愛好者がいる世界最大のアマチュアコーラス団体となっている。
 残念ながら、日本の理容師でそのような文化を知る人は少なく、服飾業界と異なり、そのような文化イメージを演出することは無かった。
 筆者は毎年、町の美術館で「理容の文化展」を開いているが、グルーミングの心地良さと共に、このような豊かな文化に身を浸す喜びを提供すれば、低料金店でせわしなく散髪を済ます人達や、美容に流れる人も呼び戻せるのではないだろうか。

5.オシャレな理容イメージを作ろう

 20年前、講習会で「これからの理容店は床屋らしくてはならない。都会の美容室のようにするべきだ」と、講師が東京の最新の美容室のスライドを見せてくれた。
 「講師の言葉は本当だろう。そして日本人のことだから同じ方向に走り出すのではないか、しかしそれで良いのだろうか。理容が理容のままでカッコ良くなる方法があるはずだ、それに社会には多様性が必要だ」と筆者は講師の言葉と逆の店を作ろうと決心した。
 そして理容椅子を木製に改造し、鏡枠も床棚も同じ木で作り、祖父の代から残っていたバリカンやタオルスチーマー、シェービングカップを飾り、大正時代風の店として、新装開店ならぬ旧装開店した。その後理容ビジネスの黄金期を築いたアメリカの、バーバーグッズを収集し、現在は古き良き時代のアメリカ風になってしまった。
 お客様の反応は上々で「何故こんな店が今まで無かったのだろう」と喜ばれている。女性客には特に好評で「いつまでも居たい」と言う人や、記念写真を撮る人、テーマ曲を作曲してくれる人もある程である。
 また店内の理容グッズをTシャツやトレーナーにプリントして販売すると、百枚が1ヶ月で完売してしまった。現在は女性用シェービングカップを特注で作り、好評を得ている。
 こうして見ると、理容イメージは「古い」として嫌われているのは嘘であることが解る。それは理容師達が、インテリアやディスプレイに無頓着で統一性(スタイル)が無く、雑然とした店になり、センスが悪いと嫌われているのだろう。
 業界紙のアンケートを見ても、多くの人は「オシャレな理容店があったら、顔剃りもしたいので行きたい」と答えている。美容のマネではない、オシャレ感のある店、スタイルのある店が求められているのではないだろうか。

6.まとめ

 本稿の主題の1つは、理容師を目指す若者が激減しているのは、理容に古いとか地味とかのマイナスイメージがあるからではないか、では、そのイメージは何に由来しているのかを、解き明かすことであった。
 そして第2は、その負のイメージを美容化することで払拭すると、理容は消えてしまうのではないか、理容のままで良いイメージを創る事はできないかという点にあった。
 1への答えとしては、理容は規範的人間像と共に入って来たこと、理容は良き人間像を保守する事も大切にしていると説いた。
 2への回答には、VANを手本に、本場からの文化を援用して演出する事が必要ではないか、店を舞台とするなら、それなりの舞台装置が必要で、一例として筆者の試みを提示した。そして1を理解し、2を実行する事によって、低料金店や美容へ流れる客を阻止できるのではないかという事であった。
 2に関して付け加えれば、全理連の理容ミュージアムが、欧米まで視野に入れた展示をし、文化的背景を発信する事が必要だろう。
 できればミュージアムグッズとして、看板やサインポール、ポスター等を販売し、営業支援の一環とする事や、理容の大会にバーバーショップカルテットを招いたり、合唱会を後援したりして、理容組合のイメージを高める文化戦略が必要ではないだろうか。
 ”歴史とは、雨粒を見るのではなく、虹を観る事だ”とある歴史家は言った。筆者はそれに習い、理容の先覚者達の働きを虹として観た。理容を欧米から受け継ぎ、深化させた彼等は、現在の日本を見て何を思うのだろうか。まだ”普請中”なのではないだろうか。
 理容店を、若者があこがれる大人のスタイルの発信地として進化させ、そして誇りを持ってサインポールを回したい。
 追記:以上の論は、男性客の8割以上となるスタンダードな髪の価値を高める意味もあり、最先端の髪を無視しているのではない。
 スタイルとファッション、不易と流行の両輪が理容を豊かにするのだ、と思う。

 

主な参考文献
ジ・アメリカンバーバーショップ(M・ハンター)
父性の復権    (林道義)
愚図床つれづれ草 (竹内蔵之助)
明治という国家  (司馬遼太郎)
髪の文化史    (荒俣宏)
自助論      (S・スマイルズ)
学問のススメ   (福沢諭吉)
ビゴーの見た日本人(清水勲)
バーバーショップ・ハーモニーへの招待(菅野哲雄・松村一夫)

 

 

審査講評
審査委員長 尾﨑  雄 (生活福祉ジャーナリスト)

良き人間像をささえるための「旧装開店」のすすめ

 この論文を読んで幕末・明治に活躍した二人の先駆者を思い出した。坂本龍馬と福沢諭吉である。現存する写真によると、龍馬はチョンマゲでもなければ西洋紳士のオールバックでもない独特のスタイルだ。龍馬より一つ年上の福沢諭吉は、26歳の渡米記念写真ではチョンマゲだが、50代半ばで撮った肖像写真は現代の中年男性と全く同じ髪型。六・四に分けたオールバックスタイルである。
 それは120年たっても、大人の男性の髪型として「現在の基準(スタンダード)であり、最も信頼を与えるスタイルであり続けている」。論文筆者の梶川氏は、横浜に停泊していた外国船から理容を学び、その髪型を日本人の頭のかたちに合わせて改良した明治の理容師の先見性を再発見し、理容の文化的な意義を「伝統的な良き人間像を時代に合わせつつ保守する役目もある」と主張する。
 明治維新以来のスタンダードな髪型は、必ずしも精神の守旧を意味しない。むしろ、古そうな外観の裏に、その人ならではの、同時代から一歩先んじようとする前向きな精神が内包されているからだ。真の大人は何事にも奇をてらわず、流行を追わず、世相に迎合しない。梶川氏は20年前、「地方の理容店は東京の美容室を模倣せよ」と促す講演を聴いたが、逆に「理容が理容のままでカッコ良くなる方法があるはずだ」と決意。店舗を敢えてクラシックなスタイルに「旧装開店」し、成功を収めているという。

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